御船の恐竜祭りでそば打ち

御船
4月29日に恐竜祭りでそばを打ちました。気合いを入れて45食しましたが余りました。永本さん申し訳ありません。御船の町長が先生が御船高校の前で竹刀を持ってたっとった先生でしょうといわれました。赤面です。そうです私が御船高校で鬼といわれたウオズミです。白状します。御船高校の校長先生にもそばを買っていただきました。ありがとうございます。次のページはprevをクリックしてください。
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昭和30年代

事務所
父が税理士事務所を開業した頃です。6畳と3畳と台所に5人生活していました。貧しいけど幸せな日々でした。母の作る水餃子が唯一のごちそうです。近所には子供達が30人ほどいて夜遅くまで遊んでいました。月光仮面がヒーローで風呂敷をかぶってバッキューントと言いながら拳銃のまねをして倒れていました。この服装は珍しくハレの日のいっちょうらです。子供達の嬉しそうな顔からするとこの後大洋デパートの屋上か銀丁に1年に1回連れて行ってもらったはずです。次のページはprevをクリックしてください、

恐竜博物館でそばを打ちます

恐竜
4月29日11時頃から御船の恐竜博物館でそばを打ちます。2回やるつもりです。30食お持ち帰りを用意します。おいで下さい。次のページはprevをクリックしてください。

父の遺品の中から文章が出てきました。

父と母と私
出会い(奉天、大連) 魚住一則、人生は出会いである。出会いが私の人格形成に大きく影響し、今の私を育ててくれた。何より幸いだったのは、満州電業という会社に出会ったことである。私は昭和17年9月繰り上げ卒業により現役入隊、その春甲種合格だったのに精密検査の結果は肺浸潤で即日帰郷となり、すでに就職が内定していた満州電業に入社した訳である。しばらく本社に所属した後、奉天支社経理課に配属され、鉄西の誠明寮に入った。会社は設立後8年、使命感と活力に満ち、組織も硬直化しておらず自由闊達な社風のもと、上司と部下が良く融和し若者も遠慮無く物が言え、存分に活躍の場を与えられた。また一業一社という国策に基づく特殊会社として、スケールの大きさは言うまでもないが度量も広く、大らかな包容力をもっていた。要するに自分の一生を賭けるに足る働きがいのある会社だったのである。短い在職期間だったにもかかわらず、電業時代を「魂のふるさと」として、いつまでも郷愁を抱き続けている所以であろう、。入社後さらなる出会いがあった。良き先輩同僚との出会いがそれで、その後の私の宝となった。才子あり、豪傑あり、実に多士済々であったが皆一様に理想に燃え、戦時下という異常な環境のもとで、それこそ命を賭して意欲的に社業に精進しておられた。なかでも同じ寮の杉さん(杉本良雄兄東京)や弁ちゃん(清水弁次兄群馬)とは妙に気があって、毎晩のように誰かの部屋に集まっては語り合い、仕事のこと、読書のこと、人生のこと、民族問題等々、興いたれば談論風発、夜を徹することもしばしばだった。ある夜半、腹が減って、杉さんが持ってきた米を窓枠に降り積もった雪でといで食べたことがあったが夜が明けてびっくり、それは煤煙にまみれた黒い雪であった。勤め帰りにいっぱいやり、酔ったあげくに鉄西のガード付近の路傍の雪の中に寝込んでいた私を、偶然通りがかった杉さんが見つけ、連れて帰ってくれたこともあった。あわや凍死するところで、まさに命の恩人である。民族問題といえば、奥田謙之助兄(現地入隊後消息不明)は、率先して五族協和の実践に取り組み、城内営業所に泊まり込んで現地人社員と共に働いていた。さすがにノミやシラミには閉口したようで、衣類にとりつかぬように夜は素裸で寝るんだと言っていた。前記したように私は初期とはいえ胸をやられていたので、会社では毎日医務室でブドウ糖注射をして元気をつけていた。従って社業にはあまり寄与していない。それにもかかわらず、会社はよく面倒をみてくれ、昭和19年私を大連市郊外の夏家河子にあった会社の保養所に入れてくれたのである。そこでは内藤慶嗣兄(三重)らと共に療養生活を送ったが、特効薬とて無かった時代で、もっぱら時間割に従って安静と軽運動を繰り返す日々であった。終戦はそこで迎えた。各地から来ていた10名ほどの入所者は大連支社が引き受けてくれ、私は経理課に配属された。そして昭和23年までの約3年間に故沢井覚兄(筆名石沢栄太郎)、湯本用吉兄(千葉)との出会いがあり、沢井兄の脚本で演劇をやったり、湯本兄と仲間に呼びかけて短歌会を作ったりした。特に湯本兄には結婚の仲人をお願いし、その社宅を披露宴会場にお借りした。最後に他の人々との出会いは紙数の関係で別の機会に譲らせていただくとして、何はともあれ、電業会のために力を尽くすことを通じて、これら貴重な出会いのご恩に報いたいと、心を新たにしている次第である。略歴昭和15年大連商業卒業、昭和17年長崎高商卒業、満州電業入社、昭和23年大連電業退職、大連甘井子日本人学校に引き上げまで勤務、昭和29年引き揚げ、昭和33年税理士開業、昭和40年公認会計士開業。次のページはprevをクリックしてください。

熊本高校時代の尊敬する恩師松木先生が亡くなられた時の追悼文集「あがと、ごめんね」に載せた文です

熊本高校昭和44年
松木先生は私が熊校1年生の時に担任をしていただきました。アメリカのテキサス大学から留学帰りのバイタリテイあふれる授業と熱い心で、士君子達をすぐに魅了してしまいました。ワイシャツノの袖をまくり、がに股で自転車に乗られ、英語の単行本をポケットに入れられ、黒板を何度も消しズボンの後ろは真っ白で、放課後は体育館で卓球に打ち込み奇声を発していました。私は熊校のアカデミックな雰囲気になかなかなじめず、空手部に入り、空手にだけ燃えていた。宇都宮主将(今は弁護士)のマンツーマンの激しい特訓を何度も受け1年生の時から試合に出て先輩達からは勘なし魚住といわれました。絶対に後ろに下がらなかったからです。当時前田研己君や江島君とポイントを稼ぎました。すぐに大将になり九州大会等に出ました。「頭でっかち、くまたかは勉強だけしとれ、この青びょうたん」という近隣高(第一工業、鎮西、九学)からの挑発にのり中国生まれの大陸の血が騒ぎました。喧嘩にはまってしまったのです。商大の裏女子大の裏立田山には何度も呼び出され出かけました、味噌天神の交番は顔なじみになってしまいました。当時の牧野校長先生と一緒に謝りにもいきました。この校長先生はすぐになくなられましたが、理科準備室では正座して菊川先生や山田先生のおしかりを受けました。校長室には母や父が交代で頭を下げていました。私の胸は張り裂けそうでした。GK杯や阿蘇登山遠足は家でおとなしく謹慎していました。本荘の家の手前50メートルに母がいつも喧嘩しないように待っていたのには参りました。ある日松木先生と放課後二人きりになり話をされました、白い紙に同心円をいくつか書かれ人間はいろんな事があって大きく成長するという話をされました。私は声を上げて泣きました。そのときお借りしたハンカチはまだ返していません。その後馬鹿なことはやめ早稲田にいき教師になりました。生徒と接するときに松木先生ならこういうだろうと無意識に考えます。先生は私の心の中に生きています。合掌。
1998年2月発行「あがと、ごめんね」より次のページはprevをクリックしてください。

玉名の井上様

新幹線の技術者の井上様ありがとうございます。チャツチャツと5人分作られさっつと帰られました。
包丁さばきは慣れたものでした。たれもメモされて行かれました。ありがとうございます、次のページはprevをクリックしてください。

御船高校に9年間勤務しその最後の3年間受け持った生徒に贈った文章です。魚住真一

御船高校新聞
神様は知っている。3年1組担任 魚住真一 この3年間米と野菜と人間を育てた。この3つに共通することは栄養の与えすぎは作物をだめにするということであった。適度なストレスは必要だ。
雨や風や渇水は作物を強くする。特に人間をだめにするのは物わかりの良すぎる親。母親のかまいすぎ、父親のかまいなさすぎ、夫婦の会話のなさ、砂糖と油のとりすぎ、これにつきる。ではどうしたら良いか。だめなことはだめとはっきりと言い、一時も早く子どもを手放すことだ。子供を信頼し自立させることだ。もしこけたら親が全身で守ってやれば良い。3の1で自慢できることがある。校内で一番本を読んだ。行間の機微をつかみ取った。朝の静かな時間を共有した。これで世の中のぶち切れる17歳から乖離した。掃除をきちんとやった。仕事を自ら探してやった。つまりやるべき事はきちんとやった。欠点もある、めっちゃ行動が軽い、騒ぎすぎる。バスの中のカラオケ大会はエンドレスの騒音公害であった。しかしこれは担任にもあてはまるので頭をそっておわびしたい。これからは妻でも娘でもなくロボットが介護し、寂しい老人はテレビのリモコンと携帯を持ってコンビニにたむろするだろう。今大事な事は感動する心、感謝する心だ。木下、高橋、松浦と3年間つきあったことは、大きな収穫であった。私の頑固親父の役割は終わった。これからは鬼の魚住から養護学校に行き仏の魚住に変身するのだ。シュワッチ。体の弱い村上が「勉強は好きでないが3の1は楽しいから来る」と言い切った。目から鱗が落ちた。そうか3の1は癒しの場であったのだ。これからは点数に関係のない世界だ。君たちの出番だ。真摯に誠実に自ら仕事をこなせば良い。神様は知っている。次のページはprevをクリックしてください

御船の恐竜祭りでそばを打ちます

エプロン
4月29日御船の恐竜祭りでそばを打ちます。御船高校には9年間勤めました。不思議な縁ですね。
しかも今夜はそのときの生徒の同窓会がありました。やんちゃな個性的なクラスです。3年間持ちました。今は全てが良い思い出に変わりました。人生色々。おもしろいエプロンをもらい感謝感激です。次のページはprevをクリックしてください。

手づくりハウスあんずの会でそばを打ちました

はうす
手づくりハウスあんずの会でそばを打ちました。30食あっという間に無くなりました。久木野の粉を使いました。地産地消です。食べれなかった人には申し訳ありません。明日は自分の家にも生徒が来ます。急に忙しくなりました。次のページはprevをクリックしてください。あと10ページほどあります。

手づくりハウス春まつりでそば打ち

hausu.jpg
手作りハウス春祭りでそばを打ちます。4月12日13日です。陶芸家や藍染め、草木染め、パッチワークの方々とお会いできるのがとても楽しみです。一生懸命頑張ります。よろしくお願いします

父の49日が終わりました。

DSC01517.jpg
今まで父の思い出の中に生きていましたがこれからは自分の足で立ち自立していきたいと思います。文章もなかなかかけませんでしたがこれからは、はじけてがんがん書くことができます。中学3年生の時に会計事務所を設立しました。こんなにうれしそうな父は見たことがありません。次のページはprevをクリックしてください。たくさんありますよ。
いらっしゃいませ
プロフィール

魚住真一

Author:魚住真一
昭和26年中国大連で生まれる。父は満州電業、母は日赤の看護婦、二人の間に私が生まれた。帰国後、健軍小では野球や赤銅鈴の介や月光仮面ですくすく育ち、江原中では剣道と生徒会に熱中し、熊本高校では、空手部主将で熊本県強豪校でした。かんなし魚ちゃんといわれてました、早稲田大学は、荒れていてほとんどがレポート提出でした。やっと大学を卒業し、熊本県の教員を33年間やりましたが、その間の熱い思いは、もう忘れました。今はそば打ちに気も狂わんばかりに熱中し毎日打って妻に怒られています。あしたのジョーと吉田拓郎のたどりついたらいつも雨降りと高倉健の歌をそっと口ずさむのです.。携帯番号は090-1349-9852です。

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